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| 達磨山大通寺は応永18年(1411)の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。 天正3年(1575)の長篠の戦い において、武田勝頼 は 5月19日夜 医王寺山本陣 の軍議で決戦を決断し、諸将はそれぞれの陣地へ戻る。 馬場信房 は決戦回避を主張して果たせなかった同志の将、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次 らを自分の陣所である大通山に同道してこの日の軍議を嘆き、このように事態になった上は、明日の戦いに一命を賭して戦うだけである。共に武田信玄公に引き立てられ、勝頼公の今に至るまで戦場を疾駆したことは数えきれないが、幸い今日まで命を永らえた。けれども、明日の一戦は最後となるだろう・・・と、お互いに旧友を謝し、明日の奮闘を誓い、今生の別れとして泉の水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。 (説明板より引用)
この盃井戸は大通寺本堂の裏手にあり、大通寺山陣地跡は、盃井戸の横から墓地の中を進み、写真最下段左の裏山を登って行った所にある。また、盃井戸と同じ所に、明治13年12月、当時名古屋鎮台の参謀山川浩大佐(後に陸軍少将男爵貴族院議員)が現地を訪れた時詠まれた盃井歌碑がある。 盃の井にて 浩 これまでと汲みかはしたる盃の みづもみにしむ長篠の里 大通寺横には、様々な願い事をかなえて下さるという 城藪稲荷 があり、左手にある
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