● 幽玄橋のいわれ 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 今から380年前、1592〜1595年(文禄年間)のころのことです。 宇利に榊原幽玄というお医者様がありまして、新城へ来ておりました。 新城といっても、橋向付近にみえたのではないかと思います。
 昔は、川には橋もなく、道を歩いてきて、川のところにくると、ジャブジャブとわらじのまま入って向こうへ出るという、まことに不便なことでありました。
 このころから、交通の量もだんだんふえてきましたので、いちいち川へ下りていくのは大変だというので、榊原幽玄さんが橋をかけました。 それは、ただ丸太をわたした程度の橋だといいますが、それでも往来の人々のためには、大変便利であったと思います。
 その後、1606年(慶長11年)水野分長というお殿様が、知多の緒川から、13,000石で新城へ入ってきました。 この頃から、住民や人家がだんだんとふえ、やや城下町らしくなってきたと思われます。
 この水野という殿様の家来に、竹内弥五左衛門、竹内七郎右衛門という2人の家老がいました。

 ある日、この2人が馬に乗って幽玄橋へさしかかった時のことです。 竹内七郎右衛門の馬が、パッとはねたもんですから、弥五左衛門の馬がびっくりして、またこれがはね上がりました。 そこで、弥五左衛門は、幽玄橋から川へ落ちてしまいました。
 それを見ていた七郎右衛門は、
 「どうか、橋向の八幡様。 この土橋を落馬しないように、向こうへ渡れますように、お守りください。 もし、無事に渡れましたら、お社をたててさし上げましょう。」
と、目を閉じて、一心におがみました。 そして、土橋を安々と渡ったということだそうです。
 どうも、幽玄橋の土橋と、そのころの記録にありますので、さきに榊原幽玄がかけた丸太の橋がこの時には土橋になっていたようです。 武芸達者な上級の武士が落馬するというぐあいですから、土橋のかかっていた川までよほど坂になっていて、道も悪く、橋も上等なものではなかったということが想像されます。
 いずれにしても、この川を榊原幽玄にちなんで、幽玄川とし、橋は幽玄橋としたことだろうと思います。

 
 新城昔ばなし 365話(新城市教育委員会発行) より引用 


幽玄橋

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