石田合戦と狐塚 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 徳川家康は子供の時から今川氏に従属していたが、永禄3年桶狭間で今川義元が戦死すると今川氏を離れて独立した。野田城主の菅沼定盈も今川氏と絶って家康に従ったので、義元の子氏真は怒って吉田城主小原鎮実らに野田の菅沼氏を攻めさせた。定盈はよく戦ったが衆寡敵せぬことを知って、城を明け渡し、八名郡の西郷へ退いた。その後、定盈は野田城奪還をねらっていたが、翌年6月不意に立って、先年今川勢に取られた、かつての自分の城を攻撃した。今川方の城代稲垣半六郎らは戦死し残る兵も敗走して、定盈は野田城奪還に成功した。
 敗走した今川勢は何度も野田城を攻めたが、定盈の防備が堅くてとても攻め取れない。そのまゝ国元へ帰えるのを恥じて、東の方にある石田の新城を攻め取って、せめても野田城を取られた申し訳にしようと決心して、石田の新城を攻撃することとした。城代の菅沼藤十郎定氏はこの報を知って、自から兵を率いて石田の伝寿山に兵を伏せて待っていると、今川勢はこれを知らずに前進した。機を見ていっせいに攻めかかり、城中からも撃って出て、城代菅沼定氏、井道に居た菅沼久助定勝らの働きで今川勢は稲垣十郎左衛門、松井兵右衛門、鈴木甚八郎、倉川弥太郎などを失って惨敗した。
(中略)
 この戦いで討死にした稲垣十郎左衛門を石田の黒坂という所に葬った。この稲垣の塚に狐が棲みつき、この狐は「化身ノ妙ヲ得タル老狐」というわけで、「黒坂殿」または「黒坂お辰」といって豊川の平八狐、伊奈村の長左衛門狐と共に有名であった。この地方を跋扈して慶安年中(1648〜1651)までは生存していたが、その死後、村人が此処に祠を津てゝまつり、これを弧塚と言って稲垣十郎左衛門の墓よりも狐塚の方が有名になってしまった。

新城歴史ばなし( 新城市郷土研究会発行 )より引用


狐塚

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