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| この石橋城址は現在「石橋山 慈昌院」と呼ばれ、ご本尊に釈迦如来を安置し、臨済宗のお寺となっている。 「 天文6年(1537)9月22日一族奥平弾正(父は貞久の二男久勝)は公(貞勝)の若年なるに乗じて、不軌を図らんとす。公之を探知するや土佐定雄(貞久公の五男和田出雲貞盛二男)をして、その居館を急襲せしむ。定雄賜う所の長槍を揮うて弾正をたおす。」 と、中津藩史貞勝公の条に記されている(作手村誌) 北側土塁の前に弾正宮の石祠を祀る一角があり、その傍には住職の無縫塔(むほうとう)とともに宝篋印塔(ほうきょういんとう)一基がある。弾正の墓であるといわれている。 作手の名勝と史跡めぐり(作手村教育委員会発行)より引用
奥平家2代目貞久の次男弾正久勝が最初の城主。天文6年(1537)9月22日、久勝の子弾正繁昌は主君への謀反が露見し、4代貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められ敗北、郎党40人余が討死した。 後年徳岩明和尚が繁昌とその一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷を貰い受け寺地とし石橋山慈昌院とした。 石橋城は、奥平氏の2代、貞久の次男、弾正久勝がこの地を領して築いた城であるという。ここが石橋という地名であったことから、彼の子孫は石橋氏を名乗ることとなる。天文6年(1636)、久勝の子、弾正繁昌は、本家に対して謀叛を企てた。しかし、それが露見し、奥平貞勝の命を受けた土佐貞雄に急襲され、弾正はじめ40人ほどが討死したという。死骸は一ヶ所に埋められ、そこは奥平弾正宮と呼ばれている。西方の土塁のあたりであるらしい。
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