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| 山本勘蔵信供 は、武田の軍師 山本勘介晴幸の子で、天正3年(1575)5月、長篠・設楽原の戦いに20才の若さで討ち死にした。 信供らは、はじめ高坂昌澄らとともに、長篠城 監視隊として、寒挟川沿いに備えていたが、武田勝頼本陣 から全軍設楽原に終結し、決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦した。 しかしこの時すでに遅く味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で徳川本陣 めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れた。戦後、守綱は家康に話し、勝楽寺前 に石を建て弔ったという。後に一石五輪塔がまつられた。(看板資料より) 山本信供戦死の地 は大海にあるが、なぜか遠く離れたこの地に墓がある。
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