満光寺のにわとり 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 山の吉田の
 満光寺様の
 とりになりたや
 にわとりに

この民謡は、今日ではほとんど、歌われておりませんが、苦は、山吉田附近の人々はもちろんのこと、遠く関東や関西あたりまで歌われたと、いわれております。
この民謡が生み出されたわけには、次のようなお話があります。

 それは、今から、およそ390年の昔、元亀(1570−72)のころ、徳川家康が、甲斐の国の武田信玄の軍勢に追われて、山吉田まで退いて来た時のことです。その時、ちょうど夜になってしまったので、家康は附近の満光寺を訪ねて、一夜の宿を頼みました。
 清光寺の和尚は、この家康の頼みを、心よく引き受けてくれたので、家康はたいへんに喜び、さっそく家来たちを休ませ、自らも床につきましたが、その時和尚に、「明朝一番どりが鳴いたら、必ず起こしてもらいたい。」と頼んでおきました。ところがどうしたわけかその夜は、にわとりが、真夜中に大声でときをつくって鳴きました。和尚は約束どおり、とりが鳴いたことを話して、家康を起こしますと、家康はとび起きて、手ばやくしたくをし、家来たちをまとめ、礼を手厚く述べて、寺を出かけて行きました。
 そのすぐ後、武田軍の追手である山県三郎兵衛昌景が、寺を囲み、家康の行方を入念に探しましたが、しかしその時すでに家康は満光寺を退去の後でしたので、目的を達することはできませんでした。このようなわけで、徳川家康は、ほんとうにあぶなかった生命でしたが、満光寺のにわとりに生命を助けられたということです。
 後に家康は、清光寺のにわとりの恩を忘れず、寺領三石の黒印状を満光寺に与えて、その恩返しをしました。
 それから年は流れて、慶安年間、徳川の三代将軍徳川家光は、祖父家康が鳳来寺薬師の生まれかわりであると聞いて、鳳来寺山上に東照宮を建て家康を祀りました。そしてその寺領を与えるために、旗本であった海老菅沼家の領地をさいて寺に与え、代りとして従来天領といって、徳川幕府直接の領地であった山吉田を菅沼領に与えました。
 このようなわけで、天領から旗本の海老菅沼領となった山吉田は、天領時代には四公六民といって一石の収穫米のうち、四斗を年貢として納め、残りの六斗を自分のものとすることができたのに対し、菅沼領となってからは、だんだんと年貢の率が高くなり、しまいには六公四民という高い率になってしまいました。このように年貢の率が高くなると、農民の生活は日に日に追いつめられて、苦しくなって行きました。しかし、士農工商の身分制度のきびしい当時は、うっかりこうした制度の批判もできませんでしたので、じっとがまんをするよりほかに、方法もありませんでした。そうした追いつめられた生活をしいられていると、にわとりでありながら、三石の扶持をもらっている、満光寺のにわとりの身分がうらやましくなり、こんな民謡が生まれたものと思われます。

 なお、だいたい同じような意味で、次の二編の民謡も残されております。
    ○とりになりたや
     満光寺さまの
     お庭ならしの
      にわとりに

    ○とりlになりたや
     清光寺様の
     せめてお庭の
      にわとりに

やまよしだの昔話(山吉田郷土研究会) より引用


満光寺

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