● 「吉か凶か」和地城内鶏の宵鳴き 前のページへ戻る   HOMEへ戻る   東三河の伝説・昔話へ 

 その昔、和地城は三島神社の西に接する地点字宮の前にありました。ここはこの地方が和地の庄といわれた頃の庄司の住んでいた屋敷跡であったといわれます。ずっと後の戦国の世になって、渥美郡老津城主戸田三郎右ヱ門忠次の二男尊次が17才のとき、家康に従い小牧、長久手の役に出陣しその折の功によって天正12年(1584年)和地五百石の知行を許されてここに城を構えました。
 天正18年の秋のことです。或夜、城内に飼われている鶏が一斉に宵鳴きをして人々をおどろかせました。もともと鶏の宵鳴きは悪いことの起きる前ぶれとされていましたので皆は大変心配いたしました。すると翌日、関東より家康の使者が到着し、父忠次が伊豆国下田五千石の領主となったため、父とともに下田に移るよう命ぜられました。そして慶長5年閏2月22日父忠次が下田に歿したのでその遺封をつぎ下田五千石を支配することになりました。
 このことがあって以来、戸田家においては鶏の宵鳴きを最大の吉事とするようになりました。
 尊次の下田転封後、和地村は吉田城主池田三左ヱ門輝政の支配地となり、和地城には、池田の家臣梶浦弥三郎が入りました。梶浦は慶長5年、関ケ原の役で戦死したため、そのあとに戸田内記というものが入り、その子兵右ヱ門の時、慶長6年11月戸田等次が伊豆下田より田原城主となるにおよんで和地村はふたたび前領主の支配下になりました。しかし和地城は、この折に廃されてしまいました。城址は最近まで周囲を囲む堀跡をわずかの石壘によってとどめておりましたが、昭和41年以来の耕地整理のため堀は埋められあとかたもなくなり、わずかに附近を流れる鉄砲川のせせらぎが当時のままの音をのこしております。
 渥美町の伝説(渥美町教育委員会発行) より引用 


三島神社

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