● 入王稲荷の由来 前のページへ戻る   HOMEへ戻る   東三河の伝説・昔話へ 

 大正7年旧暦9月5日小中山の又右ヱ門さんが用足しのため小塩津へ行き帰りがけに自分の家の隣に住んでいる森下松吉さん方を尋ねました。ことづけを依頼されたからです。松吉さんは漁に出て留守でした。
 家内のとめさんと入口の敷居を中に挨拶を交しました。話はその時が始まりです。
 常々気立ての優しかったとめさんは急に様子が変わりました。ふところ一杯に入れた柿を皮もむかずむしゃむしゃと喰べ側に子供が居て欲しがっても、一つも与えようとしません。はては笠とみのを持って納戸に入り片隅の釘にかけ蒲団を頭からかぶり坤き出しました。 
 驚いた家の者は分家の森下秋三郎さん方に援助を求めました。集まった人たちに介抱されたとめさんのようすは普通の病人とは違い時々起き上り招き猫のように手首を曲げ、上目をつかい、あたりを眺めては奇声をあげ又蒲団をかぶって坤くのです。
 とめさんにはともという姉さんが近くにとついでいました。話をきいてかけつけ妹の枕辺にすわり様子をみて、これは狐つきだと見極めました。大声をあげ「お前は何処の狐だ早く退散せよ、退散しなければ鎌を持ってきて斬り殺すぞ」と、どなりつけました。とめさんは、「いやいや私は狐ではない助けてくれ」と大声をあげて泣きじやくります。
 ともさんは家に帰りましたがその後、起き直ってあたりの人たちに言うのには、「ともは片目だが私を狐と見破ったのは手柄だ、私は人間ではない。清田権現という狐だ、元東京砂村に住んでいたが私の夫の北南権現が、豊橋在に住居を変えたのでそれをたよりしばらくは小塩津村の正福寺の本堂床下に、仮住居していたが何分にも狭くまた低いので不自由だ。どこかよい住家はないかと思って又右ヱ門の首にのり小中山まで来たが、よい所もないので一時とめ体内をかりたが、見破られた上はいつ迄も居るわけにはいかないから間もなく退散する。先さばど、ともはこわい顔をして私を驚かしたが、心は至って優しい何となくしたしみ易いから、此処からともの家に行って休みたい。」と言えば、ともさんにそのことを告げると、来てもよいが夜になるとこわいから日のある中に移るようにと言うままに、ゆっくりゆっくりあるいてともさんの家に落付いたが、ともさんの家でも主人は不在で家には2人の幼い女の子だけ、日はとっぷり暮れて、十燭の電灯も殊の外薄暗く感じ、一同谷底深く投げ込まれた思いでねむられぬまま、枕元に集り夜の明けるを待つよりほか何のすべもありません。清田権現はともさんに向かい、「何か望みがあるなら言うがよい、きっと叶えてあげよう」と言ったが無欲の妹思いのともさんは、ひたすら退散を望むだけでした。権現はうなずいて 「私は2日ここに留年7日の午前2時には必ず退散するであろう決して疑うでない」ともさんは半信半疑一心に退散するよう神仏に念じつづけました。恐しかった夜もあけて、伝えきいた村の人々が次ぎ次ぎに見舞に釆ました。権現の言うには、「私は一度人間の体内に入ったためもう出世することは出来ないが、十里四方の物事は何一つ知らぬことはない、尋ねたい事があれば何なりと尋ねるがよい」と言えば人々思い思いに尋ねると直ちに答え、何一つ知らぬことはありませんでした。或者は紛失物を或者は漁の多少をと各々勝手に尋ねたが何れも掌を指すように、はっきり答えたので人々は驚きました。なお、また松吉さんの舟だけは大漁があると言ったが、その言葉のように行く先々で大漁、しかも其の舟に限られていたのも不忠議でした。昨夜に引きかえ不安少い6日もやがて暮れ、夜も次第に更け行き草木も眠る丑満時も間近となりました。 清田権現はともさんに別れを告げ、「約束通り此処を立つから、私を池の上の森の前までつれて行き力をこめて私を前につき出せ、その時お前の膝をこすり、とめの体内からぬけ去るであろう」と。外は暗い誰一人通らぬ池の上の森、恐しさ一杯、然し妹のためと勇気を振い、ともさんに肩をかけ森の前まで辿り着き言うがままに突き出しました。2、3間前にのめり、とめさんは其場に倒れました。ともさんはどうして打ったのか膝の痛さにしばらく自失していましたが、ハッと気付いて倒れているとめさんを抱き起こし「とめよ」「とめよ」と呼び続けると一時気絶していたとめさんも正気に戻り、あたりを見廻して不審の様子、ここは何処、私はどうして此処にと、ともさんに尋ねました。ともさんは嬉し涙にむせびつつ今迄の次第を語り乍ら家へ帰りました。これで此話も終ったかと思ったが数日の後、小塩津正福寺の住職の枕辺に立って、「私は砂村に住んでいた清田権現だが住家がなくて難儀していた。お前は私のために2000の堂を立てて欲しい」と言われました。と思うと眼のさめた住職は、さてこそ伝えきいている小中山の清田権現に違いない、是非共権現のため御堂を建立したいと決心し夜の明けるを待って有力者の許に行き稲荷堂の建立をはかりましたところ、有力者も賛成されましたので建設の事業も殊の外はかどり見事な堂が建立されました。そうして正福寺の山号をそのまま大王稲荷と命名されました。この稲荷を信ずる時は大漁疑いなしといわれ近村は申すに及ばず、遠方からも参詣者が多かったと言われています。
渥美町の伝説 (渥美町教育委員会発行) より引用 


正福寺

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