● おくす弁天の由来とその伝説 前のページへ戻る   HOMEへ戻る   東三河の伝説・昔話へ 

 昔寛延の頃長沢村に六蔵という鉄砲の名人がいました。或日前山へ猟に出かけました。獲物をさがしているうちにねむくなりましたので草原へ横になりねてしまいました。眠っていた六蔵の足に何かさわるものがありました。ふと目をさまして見ますと、尺にも足らぬ小蛇が六蔵の足をのりこえようとしています。うるさいままに手に持った鉄砲で払いのけたとたん姿が急に見えなくなりました。怪しいと思う間もなく前方に大きな古猪が駆けているのが見られました。目のさめた六蔵は「よき獲物なり」とばかり、鉄砲をとり追いかけました。どこ迄も追いかけました。亀山の石塔山から西山見がけて駆け下りようとしています。逃してなるものかと、狙い定めて打ち放しました。たしかに手応えがあり、喜んで駆付けて見ますと、古猪と思の外一丈余る大蛇が手負いの苦しさにのた打ち廻っているではありませんか。六蔵は気も転倒せんばかりに足も疎んでしまいました。折から晴れていた空もにわかに曇り物凄い稲妻と雷鳴に伴って車軸も流す大雨となりました。その凄じさはたとえようもありません。さすがの六蔵も魂も身も添わず、稲妻をたよりに命からがら逃げ帰り寝てしまいました。夫のただ事ではない様子に妻が、「お顔の色が悪いがどこか怪我でもなされたか、それとも病気にでもなられたか」と尋ねましたので、ふるえ乍ら六蔵は今日の出来事を話しました。妻は「そのような魔物を射止めなさったら止め弾を打たれましたか」と問えば「いやあまりの恐しさにそのまま逃げ帰った」と答えたので「変化を打って止めも打たずにおけば後の崇りが恐ろしいから早く止め弾をお打ちなさい」とすすめられるままに家の裏に小窓のあるを幸いに其処から止めの鉄砲を打ちました。明けるを待って勇気を奮い石塔山へ行って見ると大蛇は死骸となって横たわっていましたので六蔵は山刀を抜いて大蛇の首を切り落とし家に帰りましたが、間もなく名も知れぬ病のため死んでしまいました。時に宝暦2年4月16日、戒名も夏雲信士、長沢寺の墓中に眠り物語りの種を蒔いたのでありました。
 其の頃六蔵の妻は身重でした。月満ちて一女が生れおくすと名付て六蔵の形身として育てました。おくすは生れつき器量よしであり、利口でもありましたが、大きくなるにつれ「わたしは豊島ケ池の主であるから大きくなったら人を呑むのだ」と口走り17、8の頃から気も狂い女、子供を見れば追いかけることも度々でしたので遂に座敷牢に押込められたのでしたが、梅雨の頃雨降りしきる或日のこと、おくすは牢の壁をこわして飛出しました。母は驚いて村人と共に方々を探しましたが見当りません。母は途方にくれていましたが村人の一人が「おくすはふだんわたしは豊島ケ池の主であるから何時かは池へ戻る…」と言っていたのだから一度念のため豊島ケ池へ行って見ては」と言い出したので村人もそれに賛成、一同揃って豊島ケ池に向い三本松と言う処へ参りますと、そこにおくすの草履、ころがい、衣類まで捨ててあるのを見付けました。正しく入水したものと思われますので村人は手分けして池の中を探しましたが、遂に死骸は見つかりません。一同落胆して家に帰り、おくすの家出の日を命日に、法名も「蓬峯妙雲信女」と名付け、安永2癸巳5月9日の仏として祀りました。今から200年余り前で、六蔵の死んでから20年おくす19才年も癸巳蛇に因んだ巳年であったのも不思議と言えましょう。六蔵の妻も翌安永3年4月5日亡くなり、「生養妙本信女」の法名を長沢寺の過去帖に止めています。後絶えた六蔵にも多少の田畑等がありましたので、村人の計らいで後日相続をきめたのですが、その家に不幸が続いたため、長い間相続するものがありませんでしたが、何時の頃か今の石本家の手に移りました。不幸は石本家にもつきまといますので、何かの崇りではなかろうかと、おくすの霊のなすわざではなかろうか等の迷いもおき、また六蔵とおくすの因縁を思い、遂に昭和5年の夏7月弁財天女の尊像を長沢寺境内に寄進勧請して永くおくすの冥福を祈ることになりました。
  渥美町の伝説(渥美町教育委員会発行) より引用


長沢寺

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