● 海上り地蔵様 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 むかし、むかし。 それは寛正2年6月のことだったそうです。 そのころはまんだ、渥美線の谷熊辺りまで海だったそうだでね。 船で、伊勢や尾張とゆききしとったもんですと。
 谷熊の商船が、沢山の荷を積んで、伊勢へ渡る途中のことだったとね。 船の行く手の海が、急に明かるくなってぱあ−っと割れると、海の中からお地蔵様が現れたと。 みんなぴっくり仰天、平身低頭して、ふるえながら拝んどった。 すると船長が冗談のように、
 「菩薩様−、あなた様が、わしらの国へおいでとくれて、衆生を済度しようとなさるおつもりなら、ここでこの船をお待ちなさいませんか。 帰り船で、きっとお連れしますよ。」
 そういうと、お地蔵様はやさしい笑顔で、こっくりひとつうなずくと、お姿は忽ちにして、見えなくなってしまったとねえ。
 そいから5日ほどたって、商売をすませたこの船が、またここへさしかかると、海がま昼のように明かるくなってね、お地蔵様が海の中から、炎のような勢いであがってこられたとよおー。 船長はすっかり恐れおののいてね、お地蔵様を船へお移しして、谷熊の村へお連れ申して、帰ってきたんですと。
 ま、とりあえず、小さなお住まいを作って、安置しておきましたらばね、ある晩お地蔵様が、船長の夢に現れて、
 「いかにもせまい。 もう少しきれいな佛舎に入りたい。」
 とおっしゃたんだって。
 そこで船長は、村の人と力をあわせて、立派なお寺を建てました。
 願王山宝樹寺と申して、ここでお祀りすることにしましたです。 そいから今んまで、海からおいでたお地蔵様の由来など、だんれも知らなくなった今でも、お花をあげ掃除をして、お彼岸にはお霊供膳をあげなどして、お寺をお守りしておりますよ。
 4月8日は、この宝樹寺の観音様のお祭りです。
1尺足らずの黒い観音様は、昔から大勢の人々が、お詣りするたんびにともすお線香の灰を、練り固めて作ったといわれとって、日本中にも、めったにないほどの、ありがたいありがたーいお観音様ですと。
 宝樹寺の山門辺りから庭にかけて、石の観音様や阿弥陀様など、33体の仏像がお祀りしてあります。
 昭和のはじめまでは、お寺の裏は小高い山でして、この山のあっちこっちに煉瓦の小屋があってね、この中に一体一体の仏様が祀ってあったんですよ。 お祭りの日には、和尚さんとみんなで、山の笹道をぐるぐる廻って、お供物やお花をあげて、お詣りしたもんですよ。
 戦後の農地解放や、農地構造改善で、山が崩され、畑にされる時、観音様方を山門辺りへお移ししたんですよ。
 お祭りのこの日にはね、檀家30余軒の女の人が、朝から集まって掃除をし、お花を供え、みんなでついたお供餅やお菓子・果物など、たーくさんあげて用意をするんです。
 本堂には、外の観音様と同じ掛け軸がずらりと掛け並べられて、そやまあ、こうごうしいことですわ。 掛軸の前には、白い砂袋が置いてあってね、みんなその上に立ってお詣りするんですよ。
 西国三十三ケ寺巡りなど、めったにゆけませんものねえ。 この砂の上でお詣りすると、本当に行ってお詣りしたと同じ御利益があるそうですよ。
 その掛軸がまた立派なこと。 外の御本尊様が写してあるんですけどね。 金箔に色絵の具で、そやまあ微に入り細に亘って、本物そっくりに措いてあるんですよ。
 明治のはじめごろねえ。 この掛軸がひどくいたんだもんで、表装し直そうと、豊橋の表具屋さんに頼んだら、
 「こんな立派なものは、とても私にはできませんで。」
 と断られて、遠く京都まで持ってって、名のあるお人に作ってもらったげな。
 お経の後は餅投げをしたり、お日待ちをしたりしてねえ、1日楽しませてもらいますよ。
 海からおいでたお地蔵様と、この観音様とどういうご関係か、むかし、むかーしのことですによって、村の人々でも、ようわからんということですわ。
蔵王 田原区文化誌(田原区発行)より引用 


宝樹寺の海上がり地蔵様

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