法光院の化粧地蔵 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 永禄8年(1565年)吉田城を攻略した徳川家康は、田原城を攻めましたが、この本隊とはぺつに、戸田氏に命じて田原城の穀倉である野田村を奪わせました。この命令をうけた戸田忠次は兵をひきいて、佐久島から海路をとり半島の北岸に上陸、まず馬草の砦を奪いさらに野田村吹上の地蔵坂まで迫りました。しかし、この時今川勢の伏兵に取り囲まれ苦戦になりましが、駆けつけた友軍、戸田光定・同勝則らの部隊に助けられ危機を脱することができました。この戦闘で忠次の身代わりとなったのでしょうか、みごとに切り落とされた首は、今ではセメントでつがれていますが、戦いの烈しかったことが偲ばれます。地蔵坂に祀られていたこの化粧地蔵は、法光院に移され、身代り地蔵と呼ばれるようになりました。

ふるさとの石仏 東三河(東三文化会発行)より引用


化粧地蔵

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