● 仇討観音霊験記 前のページへ戻る   HOMEへ戻る  

 今からおよそ300年ほど前のことであります。 伊賀上野の城主、藤堂和泉守のけらいに、藤堂新左ヱ門という人がありました。 その家の先祖は大阪の陣でてがらがあり、3,000石の領地をいただき、立派な役目になりました。
 新左ヱ門の2人の子供の里次郎と里之助は小さい時に江戸の石川軍東斉のところで、剣道を習っていました。 兄の里次郎は、国に帰り佐渡守につかえ、若殿の指南役になり、評判がだんだん高くなりました。 同じ家来で殿様から、重く見られていた川田修理は里次郎の評判のよいのをねたみ、里次郎に、ご前試合を申し出ました。 30分位して里次郎が勝って、新しい領地を二百石いただきました。 修理は残念でならず、ある日、里次郎の外出を待って、闇夜に殺してしまいました。兄の仇討に弟の里之助は、慶安二年の正月、殿様の許しを受けました。
 翌年4月14日、石神観音にまいり、その夜、慈眼寺に泊まりました。 真夜中に、1人の和尚があらわれ、「あなたが、兄の敵を討とうするのは立派なことだ。 明日はここを出て、吉田へ行きなさい。 途中で敵にきっと会います。」 といって姿を消しました。 里之助は、これこそ観音様のお告げであると、よろこび、夜の明けるを待って、吉田へ出発しました。 途中植田の船渡場をこえると、川上の方に、1人の武士が釣をしていました。 もしや目指す敵、川田修理ではと思い、よく見ると、父からきいた人相のかたちであります。
 松平公は、里之助の心ざしに感心して、仇討を許し、伊奈原を仇討の場所と定め、名代の深口藤右ヱ門を検使として、当日は50間4面の竹矢来が組まれました。 この中で里之助の踏み込む打太刀はすさまじく、さすがの修理もうけそこね、肩先3寸あまりの刀傷をうけ、必死に返すところを、里之助は心得たりと身をかわし、軽く受けながして、返す太刀で相手の腕を切り落とし、ふらふらしているところを見事に打ち果たしました。 里之助は、早速、お城にゆき、松平公にお礼を申し上げ、生まれた国の伊賀上野に帰りました。
 主君、藤堂和泉守は大変よろこび、先祖の知行の他に500石のほうびと合わせて、3,500石の重臣となし、家来中の勇士としてほめられました。
 この石神の観音様は渥美の七観音様で、縁日の2月18日にはたくさんのお参りの人があります。

渥美町の伝説(渥美町教育委員会発行) より引用


慈眼寺観音堂

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