● 十三本塚の悲劇 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

今からおよそ440年前、吉田城で実際にあった人質たちの悲しいお話です。
 時は戦国時代、勢力の強い武士団が日本各地で、我こそが乱世を平定し天下を取ろうと野望を持って日々戦いに明け暮れていました。
 だから、今日は味方でも明日は敵方になるということもあったのです。お互いに勢力の強い方の味方になって、勝ち残りたいと思っていました。当然勢力の強い諸将は自分に味方することの証にその武士たちの妻や子供を自分の城に住まわせ人質にしたのです。
「もし、自分にそむき敵にまわったら、お前たちの妻や子の命はないぞ。」
と言って脅し、敵方に寝返るのを防いでいました。
 この悲劇は、今川義元が桶狭間で織田信長の奇襲にあい戦死したことからはじまります。義元が討たれてから今川氏の勢いは弱まっていきました。吉田城にも、今川方が人質にした東三河の武将の妻子がいました。
 吉田城の一室では、人質になっている人々が小声で、
「桶狭間の合戦から1年、今川様に見切りをつけた夫は徳川の方へ寝返るようです。そのため私達は人質の約束どおりになってしまうのでしょうね。」
「年端のいかない子供まで同じように、扱うなんて惨いことです。」
「本当ですね、でも、じたばたしても仕方ないわ、戦乱の世を生きる夫や家のためですから・・・」
などと案じあっているところに、城主小原肥前守鎮実があらあらしく入ってきて、
「今川氏真殿からのお達しじゃ。そちたちの夫は、今川との忠誠を反古にして、徳川に寝返った。よって諸将への見せしめのため、即刻、城外の龍括寺口にて串刺しの刑に処せよとのことじゃ。」
「ご城主さま、せめて子供たちだけはお見逃しくださいませ。」
「聞けぬ 引立てよ。」
容赦ない言葉を残し出て行きました。そして乱世の定めどおり女子供は戦いの犠牲になって、むごたらしく殺されました。
 その遺骸は龍枯寺墓地のあった中野新田に葬られました。十三人葬ったので十三本塚と言われ、現在の富本町地内だと言われています。今でもその塚だと言い伝えられている塚が残っています。
 そして、富本町の名の起こりも十(と)三(み)本(もと)からきていると言うことです。
とよはしの民話(豊橋市教育委員会) より引用 


十三本塚

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