● まぼろしの寺 篠田のまがん寺 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 篠田心想寺から3〜400メートルばかり南へ行くと土々川が流れています。そこに1つの橋がかかっていて、その橋をまがんじ橋といいます。
 どうしてそのような名がついたかと申しますと、その橋の近くに昔、万巻寺というお寺があったからだそうです。村の人は小さい時から、まがんじ、まがんじと聞かされ、また口にしながら育ってまいりました。先祖から子孫へ語り継がれて今に至りました。
 万巻寺の姿はとらえようもありませんが、その名は平成の今も生き続けているのです。
 この寺は、区画整理前の田尻33番地のあたりにあったと信じられています。この寺に昔、万巻という偉い和尚さんがいて、いつとはなしに、まがん寺と呼ばれるようになりました。
 この坊さんは、万巻のお経を読み、押しも押されぬ立派なお方でありました。それは、今から千年以上も前のことです。最澄が天台宗を開き、空海が真言宗を開いたころ又はそれより少し前のころだといわれます。ところが、そのころ律令制度が、ようやく崩れはじめ、世の中が騒がしくなってまいりました。貴族や地方の豪族がお上の土地を私有し始めたからです。政の仕組みに緩みが生じ、世の中が騒々しくなって来たのです。万巻寺もあおりを受けたのでしょう。野武士の一団に焼き払われてしまいました。ぐれんの焔は天を焦がしたと言われます。
 この時、万巻寺の門先にお薬師様がお祀りしてありましたが、難をのがれて明治の末ごろまで多くの人に信仰されて栄えたと言われます。現在、今泉鶴生さんの家でお祀りを続けています。
 さて寺を焼かれた万巻和尚は、その後赤坂の正法寺に移り住み、そこでも仏法を広め、多くの信者を導いたと申します。信者の方々には、はるばる赤坂まで出掛けたとのことです。
 この万巻上人は、後に箱根宮再建に努力され、箱根宮中興の祖としてあがめられています。今箱根神社の裏山に、そのお墓が残っています。
 箱根山縁起によると、平安初期の弘仁7年(816)勅令を受けて上京の途中万巻上人が、本坂峠の西方において亡くなられました。箱根山縁起は次のように記しています。
  半途至参州楊那郡、冬十月廿四日暮、齢九十七示寂、徒弟拾遺骨 痙本山
 即ち道の半ばの三河国楊那郡に至って初冬の10月24日の夕刻97才で命を終えた。弟子たちは、遺骨を収めて本山に埋葬したとあります。参州楊那郡は『和名抄』の郡名の項にのっている三河国の八名郡にあたります。本坂峠を西へ越えるとすぐ八名郡の和田郷にかかるのでありますから、亡くなられたのは和田の里と考えられます。
 思うに万巻上人は、かろうじてこの辺りまで来られたが、高齢の身には本坂越えの険しさが命とりになったのでしょうか。不便な旅先のことであり、しかも時刻が夕暮時であったから、弟子たちは時を移さず遺骨を守って豊川の流れを越え、万巻上人ゆかりの赤坂正法寺まで急行して茶毘に付したものと思われます。
 縁起には、さらに嵯峨天皇が万巻上人のために霊場を造立せしめたと記されております。赤坂太子山上宮院正法寺には、万巻上人所持の釈尊仏舎利(厨子内21粒)がお祀りしてあります。

ふるさとの伝説 昔のはなし(宝飯郡一宮町発行)より引用


満願寺橋

正法寺

本坂峠

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