● おゆき弁財天の由来 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 今から約400年(天正3年5月−1575)程前、設楽原の長篠合戦で、武田方が大敗した。参戦した田峯城主菅沼定忠は、家老の城所道寿と共に疲労困憊した武田勝頼を援けて、わが田峯城で一休みするべく戻ってきた。
 ところが敗戦を知った留守居の者たちは、一斉に反旗をひるがえして、道寿たちを城内に入れなかった。城内には、道寿の息子嫁梅ヶ井(37才)、その子の六之助(7才)、与一(3才)と、乳母のおゆき(23才、梅ヶ井の妹)は一瞬にして敵の中に残される運命となる。梅ヶ井は2人の子供を助ける為に、おゆきに子供たちと共にこの城から脱出することを依頼した。(梅ヶ井は城下の夢ヶ渕で投身自殺、法名芳薫院殿碧岩梅渕大姉)
 おゆきは、2人の息子の手をひいて雁峰山の山裾を南下して本宮山頂に辿り着いた。 そこで発見した松源院の住職に兄六之助(後の同寺の第7世一翁伝甫大和尚)を托し、弟与一を肩にして、豊川の浅瀬を渡って養父村の満目院に着き、此の里で武田の再興を祈り乍ら隠れ住んだ。此の間幼い与一の養育に一生を打ち込み、お家繁栄の悲願を達成し、寛永17年(1640年)9月28日世を去った。(法名年室妙寿大姉)
 おゆきの忠誠と献身の高恩に感謝し貞享元年(1684年)7月城所家の諸人相語い、現在地に霊舎を建て、その霊を慰め現在に至っている。

おゆき弁財天の解説板より


おゆき弁財天

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