● 豊川(ダキニシンテン)の由来
 今からおよそ700余年前、第84代順徳天皇の第3皇子にあたる寒巌禅師が 『時世を救う』 との大信念に燃えて二度支那(中国)へお渡りになり、諸処の名刺を通歴なされ、ご帰朝に際し船に乗って海上に出られた時、霊神が空中に姿を現わされ妙相端麗稲束を背負い、宝珠を捧げ白狐に跨って声高らかに「俺戸羅姿陀尼黎吽婆婆詞(オンシラバツタニリウンソワカ)』と唱えたまま禅師に 『われはこれ枳尼天なり。今よりまさに師の法を護するにこの神咒(しんじゅ)を以ってし、また師の教化に帰服する者を守りて常に安穏快楽ならしめん。必ず疑うこと勿れ』 とお告げになったかと思うとその姿は、かき消すごとく消え去ったという。禅師は深く感激せられご帰朝後、自からその感見するところの形像を刻んで護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の神咒を唱念し、ご祈祷するように教えられました。
 さてその後、東海義易禅師が妙厳寺の開創の折、本尊として寒巌禅師伝来の千手観音菩薩像を安置し、山門の鎮守として寒巌禅師自作の枳尼天像を祀られた。そして、ますます霊験あらたかなことより、今川義元、織田信長・豊臣秀吉・九鬼義隆・徳川家康・名奉行といわれた大岡越前守忠相・学者渡辺華山等の歴代の著名人をはじめ、広く一般信者の帰依渇仰を集めてきたのであります。なかでも三河出身の徳川家康公は、幼少の頃からことに尊信し、常に武運長久を祈願、関ケ原出陣に際しても戦勝を祈願せられ、幸い霊験めでたく大勝利を得、天下は徳川氏の手に帰し、そのお礼として寺祿45石を増進し、永く寺門を保護せられました。
 また、伏見宮並びに有栖川宮両家のご祈願のこともあり、ことに有栖川宮熾仁親王は『 豊川閣 』 の三文字の額を賜り、敬虞なる信念を寄せられました。
 このように、豊川枳尼真天の信仰は、封建時代には東海地方に起った各武将たちの信仰を中心として武運長久を祈り、一般庶民は、商人は商売繁栄を祈念し、農家は五穀の豊饒を願い、漁民は大漁、海上の安全を祈願するようになり、商売繁昌、福徳開運の守り神として、全国に数百万の信者を有する豊川稲荷となったものです。

● 稲荷本殿
 豊川枳尼真天をお祀りするご真殿で、総けやき造り妻入二重三方向拝の構造で、
  間 口・・・・・・ 18.82メートル  奥 行 ・・・・・・ 38.26メートル  高 さ ・・・・・・ 30.00メートル
の大伽藍で、その柱は細いもので直径約60センチ、太いものは1メートルという巨大なすばらしい木目のものばかりが72本もあって内部は内陣・般若殿・施主殿に区分されています。
 内陣には、江戸時代の社寺建築の名匠諏訪和四郎が、心血そそいで完成したという古色ゆかしい真殿厨子が安置され、その彫刻の巧緻壮麗はまれにみる立派なものでここにご真体が奉安されています。
 般若殿はご祈祷をおつとめするところで、施主殿は信者の方が祈願をこめ、礼拝される道場で、ここに有栖川宮熾仁親王ご染筆の 『豊川閣 』 の三文字の額がかかっています。
 本殿は、昭和5年に完成するまでに実に30余年の歳月を要し、その豪壮な建築美は、全国無比の木造建築といわれています。

● 妙巌寺庭園
 昭和36年4月23日に日本指定庭園となったもので、その面積12.17アールで江戸時代初期の築造で、老樹を背景に三笠山を形どり、空滝をつくり、山麓に池汀を設けた築山泉水庭園で、他には鯉・亀などが遊泳し、築山には蘇鉄・さつき・ぼたん・くちなし・さざんか・茶その他いろいろの草木が四季とりどりに花を咲かせる優雅な庭園は、参詣者の目を楽しませてくれます。

● 平八郎稲荷の伝説
 豊川稲荷のことを別名平八郎稲荷ともいわれますが、これは昔、東海義易禅師が妙厳寺ご開創の時、一人の老人があらわれ 『 私もお手伝いいたしましょう。』 といって禅師のそばを離れずよく働き、自から平八郎と称しておりました。
 この老人は、常に一つの小さな釜を持っており、ある時は飯をたき、ある時は湯茶を沸しておりましたが、不思議なことに何十人もの用意ができるというので人々が驚き、このわけを聞きますと 『 私に301の脊属(けんぞく)がありますので、どんなことでもできないことはありません。また、どんな願いもかなうのです。』 と答えたということであります。
 この不思議な老人は、開祖禅師が遷化されてから忽然として姿を消し、あとにはその不思議な釜が一つだけ残っていました。こうしたことから平八郎稲荷ともいわれこの釜は、今も内陣にお祀りしてあります。
とよかわ史跡名所(豊川市役所発行)より引用

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