[ 大社神社 ]


100mに及ぶ石垣と白い土塀は、寛政6年(1794年)、近くにあった田沼陣屋(老中 田沼意次の所領)の石垣を移し、また、音羽川の上流から運んだ石で築いたとされている。
 「社伝によると、天元・永観(978〜985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある。また、社蔵応永7年(1400年)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、神社造営をしたものと考えられる。また、当社には、徳川14代将軍 家茂が長州征伐に際して、慶応元年5月8日、戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております。」とある。
また、明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。
 ( 大社のホームページから )

田沼意次
( おきつぐ )
8代将軍吉宗に才能を見出され、九代将軍家重の小姓から出世し、十代将軍家治の側用人として取り立てられ、40才で大名になって相良藩主となり、その後5万7千石の幕府最高職の老中となる。
安永元年(1772年)老中となってから天明6年(1786年)老中を失脚するまでの15年間、三河の国、国府村、森村、為当村、御馬村など12カ村を所領。これらの村々を支配するために国府村の高膳寺付近に陣屋(田沼陣屋)を置いた。
大江定基
(さだもと)
大江定基が三河守の任にある時、赤坂宿の長者の娘 力寿と恋仲になるが、国司としての任期が終わって都へ帰る日が近づくと、力寿は定基との別れを悲しみ自害してしまう。深い悲しみの中で定基は冷たくなった力寿を7日間抱いて過ごすが力寿は腐乱し悪臭を放つようになった。これにより定基は、人生の無常を悟り自ら寂昭と名乗り僧として力寿供養に奉げる。菩提を弔うために建てられた寺、長福寺は、音羽町にあり、山中には姫の墓もある。
また、財賀町の入り口には、「力寿の桜」と名づけられた桜の古木があり、根元には「力寿碑」が建てられている。
徳川家茂
(いえもち)
徳川14代将軍(在職1858〜66)。4歳で紀州藩主となる。13歳で将軍に就任、家茂と改名した。公武合体のため、皇妹和宮と結婚。大坂城で21歳の短い生涯を終える。
黒船来航、安政江戸地震、安政の大獄、桜田門外の変、生麦事件、薩英戦争など、大きな事件の渦中に立たされる。
明治5年(1872年) 新橋(現汐留)と横浜(現桜木町)の間に鉄道が開通する。片道1時間で運行。

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