[ 西明寺 ]



西明寺入口

本堂

愛染明王尊像
鬱蒼とした木立におおわれた禅寺の古刹。
平安朝時代第66代一条天皇の寛和2年(986年)三河守大江定基が愛妾力寿姫を失い、世の無常を感じて仏門に入り、京都如意輪寺の寂心を師として名を寂昭と改めた。その後、比叡山に登り源信僧都の教を受けた後、大宝山の山麓に草庵を結び六光寺とし、天台宗弘道の傍から力寿の冥福を祈ったのが西明寺のはじまりといわれている。
その後、鎌倉の北條時頼が最明寺入道となって諸国行脚の際、当寺に足を留めたときに最明寺と改め、さらに、戦国時代の永禄7年(1564年)徳川家康が八幡砦における今川氏との戦いの際本寺に立寄り、空腹をしのいだその恩顧を深く感じ、最の一字を西と改め西明寺となし、曹洞宗に改宗したと伝えられている。

「 かげろふの我が肩に立紙子哉 」と詠んだ芭蕉句碑は、参道入り口にある。
衆寮にお祠りしてある愛染明王の尊像は遠い平安の昔、一条天皇の御世に三河の国守大江定基公が亡き力寿姫の菩提を弔うため、愛染池畔に祀ったと伝えられている。
人間の愛欲貧染をそのままに認めて仏心に通ずることを教えるみほとけで煩悩即菩提の教えの本尊であり、縁結び、家内円満、五穀豊穣の霊験著しく広く信仰されている。
毎年4月29日には愛染明王の大祭が厳修される。

日独交流の菩提樹

モッコクの木 豊川市指定天然記念物

ベルツ博士墓碑
この菩提樹は昭和45年(1970年)11月、ベルツ博士の顕彰句碑の除幕式にゲルヒルト・トーマ夫人(ベルツ博士の孫娘)とともに来日したドイツのビーティヒ・ハイム市のカール・マイ市長がベルト博士の生誕地であるビーティヒ・ハイムから持参して植えた記念樹。 このモッコクは、樹齢約400年で県下では最大のもの。高さは15m、幹の周りは目の高さで2.3mもある。
モッコクは関東南部以西の暖帯から熱帯にかれて自生し、また、庭木としても多く植栽されている。
別名を「あかみのき」といわれるだけあって、材はあざやかな赤色で建築材、器具材に用いられている。

ベルツ博士供養塔
ベルツ水で有名なドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツ博士の妻であるハナ(荒井花子)がベルツ死後ドイツより帰国し夫と娘のために供養塔を建てる。
菊にほふ国に大医の名をとどむ
水原秋桜子
徳川家康から西の一字をもらい西明寺となる。 境内のいたる所にこのような紋が・・・・

一条天皇 在位期間: 986年6月23日〜1011年6月13日
大江定基
(おおえさだもと)
大江定基が三河守の任にある時、赤坂宿の長者の娘 力寿と恋仲になるが、国司としての任期が終わって都へ帰る日が近づくと、力寿は定基との別れのことを悲しみ自害してしまう。深い悲しみの中で定基は冷たくなった力寿を7日間抱いて過ごすが力寿は腐乱し悪臭を放つようになった。これにより定基は、人生の無常を悟り自ら寂昭と名乗り僧として力寿供養に奉げる。菩提を弔うために建てられた寺、長福寺は、音羽町にあり、山中には姫の墓もある。
また、財賀町の入り口には、「力寿の桜」と名づけられた桜の古木があり、根元には「力寿碑」が建てられている。
愛染明王

男女和合 恋愛成就 夫婦和合 良縁成就のご本尊。愛染明王はインドではラ−ガといい、赤色とか愛情を意味する言葉から通常身体が赤い色に塗られている。また、太陽に縁が深く、で日輪のなかに坐っていて、手は全部で6本ある。

ベルツ博士 ドイツ人医師で、明治9年に政府の招きで来日。 東大医学部の前身である東京医学校で長年にわたり教鞭をとり、日本医学に多大な貢献をした人。
博士はハナ夫人を伴い帰国し、大正2年(1913)64歳で他界。
草津温泉の入浴法を世界に紹介したことによって、草津温泉には、ベルツ博士の功績を称えた「ベルツ記念館」がある。
ハナ夫人 ベルツ博士の夫人、御油の旧家の荒井花子といい、内助の功が大きかったという。 ベルツ博士の死後、ハナ夫人は、単身日本に帰り、博士の冥福を祈るため昭和5年(1930)この寺に供養塔を建てた。傍らには、秋桜子の句碑がある。
荒井花子の実家跡は、現在でも御油町に残っている。
ベルツ水 ベルツ博士が箱根の富士屋ホテルに投宿中の1892年(明治25年)1月、女中さんの手の荒れているのを見て処方し、現在でも、肌荒れ・美肌効果の薬として使われている。
モッコク(木斛)
ツバキ科  
高さ15mになる常緑の中高木で庭木としてよく植えられ、モチノキ、モクセイと共に庭の三名木と言われている。
6〜7月に花を下向けにつけ、秋には褐色のサクランボくらいの大きさの実をつける。冬にはじけて中からに赤い種子が出る。
昭和45年(1970年) 早川電機工業株式会社が「シャープ株式会社」に社名を変更。
国産初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功。

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