十王堂の観音縁起 前のページへ戻る   表紙へ戻る

 明治中世県道に指定されて、町幅が拡がる前の西の郡の町は、1間ばかりの狭い町であった。
 先年銀座が開ける時、路面を堀かえしたら、瓦礫が埋めてあったので判った。
 このせまい町の道は、山口屋附近にあった大手門を出て、露払いを先頭に、掃木で道を掃いて、しずしずと行列を立て、西の郡藩主松平玄蕃頭が、江戸往来や、領地巡視に歩いた道である。
 町中の十王堂創建は、享保8年11月と伝えられているから、今から283年前に当る。文化年間東町の大火の時、三好家屋敷(蒲郡新聞社附近から東町安藤富助さん宅)附近まで一なめにしたことがある。町が狭い上に、消火器は水鉄砲一丁というのでは、よんどこなき次第であったろう。
 その時のことであるか、または明治になってからのことか明らかでないが、やはり東町に大火事があった時、一老婆が御堂に駈けつけて、御本尊の石像観音様に背を向けたら、このひょぼひょぼの老婆の背に負われて無事に避難せられたと、古老達は伝えている。
 観音様は東町の念仏講の連中が正徳5年(242前年)に彫像したもので丈1.85m、ほとんど等身である。ひょぼひょぼの老婆が、どうして背負って避難できたのか今も、ただ信心の不思議と伝えており、眼に霊験あらたかと云われている石像で、こんなに福々しくて愛嬌のある相好(顔だち)の仏様は、蒲郡には他にないようだ。はじめは秋葉神社の境内にいらっしゃったが、明治維新に、灯籠と共にここに移された。秋葉常夜灯龍には、左ごゆ右よし田道と記し道標灯籠となっているのは市内でただ一つである。
 本尊阿弥陀様は蒲形の平内次家の本尊を返えさぬ約束で預かった。お堂の名のもととなっている十王様(エソマサマ外)は、立派な作、彫刻の組木は宝町頃までさかのぼれるかも知れない。しかし、幾度もの火災をどうして免れたか、免れ得て今日に伝えたとすれば、享保8年より古いのであるから、他所から移したものとなるが、どこから移したか、その時にやったか修理の跡が見える。時間が出来たら詳しく調べたい。
 殿様のマトイに竜吐水(水鉄砲)があったが今は存否を知らぬ。主水様(殿様)が、藩士の洋式訓練をした時の笛太鼓が保存されていたが、今は太鼓胴だけになったようだ。庭の印内石(境のしるしの石)などあって、郷土史的にポイントとなるものを数多く伝えている。

かまこおり風土記(蒲郡青年会議所発行)より引用 

十王堂

東三河の伝説・民話・昔話   前のページへ戻る        表紙へ戻る