村を守る観音さま 前のページへ戻る   表紙へ戻る

 弓張山系のふもと、吉田藩の鷹狩場の片隅に、庵があった。ある日、1人の男が尋ねて来た。
「吉田の殿様が、ここ牛川原の鷹野の開拓を進めていなさる。もうすでに殿様池も出来あがっとる。わしらは、このチガヤの原を切り拓き、田畑にしようと思うが、どうだのん」
「そういうことならわしも手伝うで、力を合わせて、一緒に頑張らまい」
 隠居していた和尚が、目を輝かせた。やがて、庵をよりどころとして集まった人たちによる開墾が始まった。しかし、耕しても耕しても、なかなか良い田畑が出来ず、しなびた米や、やせこけた野菜しかとれなかった。人々はたびたび、庵の観音さまに祈った。
「観音さま。たのむで、いい米を、うまい野菜を食べさせておくれん」
 やがて、人々の努力が報われ、少しずつ田畑が広がった。人々は庵のまわりに家を建てて住み着き、村が出来あがった。同じ頃、この村のまわりに小鷹野、野川、中沢なども次々に開拓された。
 いつの間にか、庵は立派なお寺へと生まれ変わった。
「この辺りが切り拓けたのは、お寺さんと観音さまのお陰だで、この村の名前は、お寺さんの山号を付けさせてもらわまい」
 人々は、立派なお寺となった「忠興山竜雲寺」から名前をもらい、新しい新田村を「忠興新田」と名付けた。
 さて、この観音さま、名前を「一宝観音」という。戦国大名の細川幽斎が、息子の忠興のために自ら彫り、念持仏として忠興に与えたものだ。この寺は、細川忠興の念持仏を祀っていることから、山号を「忠興山」と名付けられた。
 一宝観音が他の寺に移られた年のことだった。忠興新田の村中に疫病が広がり、多くの村人が亡くなった。村人たちは、口々に、
「一宝観音さまがおいでんで厄病がはやっただに。早よお戻しせにゃいかんに」
 村人たちは、急ぎ一宝観音さまを竜雲寺に戻し、新しく観音堂を建てて大切にお祀りした。
 この観音堂が火事にあった時、お堂は燃えつき、中にあった厨子も黒こげになった。忠輿の人々が、ぼろぼろになった厨子の扉を恐る恐る開けると、一宝観音さまは少しも焼けることなく、まったく変わらない姿で現れた。
 村人は驚き、新しい観音堂を建て、今でも大切にお祀りしている。

豊橋の民話「片身のスズキ」(豊橋市図書館発行)より引用 


一宝観音堂

東三河の伝説・民話・昔話   前のページへ戻る        表紙へ戻る