西明寺・山本勘助の墓・水原秋桜子句碑  豊川市八幡町寺前7
禅宗の寺院で、山号は大宝山、本尊は阿弥陀如来。
平安時代の寛和2年(986年)三河守 大江定基 が愛妾 力寿姫 を失い、世の無常を感じて仏門に入り、京都如意輪寺の寂心を師として名を寂昭と改めた。その後、比叡山に登り源信僧都の教を受けた後、大宝山の山麓に草庵を結び六光寺とし、天台宗弘道の傍から力寿の冥福を祈ったという。その後、永禄7年(1567年)、徳川家康の東三河出陣に協力し、家康の命により” 西明寺 ” に改名したという。
境内には 水原秋桜子 の句碑があり、墓地には 山本勘助晴幸 の兄の子孫が、勘助の追善供養のために建立した墓がある。 
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【 2014年06月19日更新 】

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(4)徳川家康から西の一字をもらい西明寺となる。
境内のいたる所にこのような紋が・・・・

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(9)日独交流の菩提樹

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(13)ベルツ博士の供養塔

(14)写真をクリックすると拡大され、もう一度クリックすると元に戻ります

(15)水原秋桜子句碑:菊にほふ国に大医の名をとゝむ

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(17)境内には山本勘助の追善供養のために建立した墓がある。

(18)山本勘助の墓は、長谷寺 にもある。

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